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モーツァルトとブルックナーをテーマにオーストリアをめぐる旅
デジタルパンフレット(該当ページが直接開きます) |
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モーツァルトは、35歳10ヶ月の短い人生の中で、10年2ヶ月、つまり約3分の1を旅しました。
記録に残っているだけでも18回、ザルツブルクとウィーンから旅に出ています。訪れた場所は9ヶ国、約200都市にもなります。ヨーロッパならどこでも足跡をたどって「モーツァルト」を旅することができますが、やはりモーツァルト好きならまず訪れてみたいのが、最もゆかりの深いザルツブルク、ウィーン、プラハの3都市でしょう。
この3都市は、旧市街の歴史地区が世界遺産に登録されたヨーロッパで最も歴史的、文化的に重要で価値のある街です。つまりモーツァルトをめぐる3都市への旅は、ヨーロッパの歴史や文化をめぐる旅にもなるのです。
モーツァルトは、旅を通じて多くのことを学び、豊かな感性を磨いてその才能を開花させました。私たちも「モーツァルトを旅する」ことで、様々な出会いを楽しむことができるでしょう。
是非モーツァルトを旅してみましょう。感動的な旅は、いつでもモーツァルトが演出してくれるのです。 |
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モーツアルトゆかりの街(ページ内リンク)
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| ザルツブルク |
ザルツブルクは、1756年1月27日にモーツァルトが生まれた街です。美しい自然とバロックの建物が見事に調和したザルツブルクは、アルプスの北でいち早くキリスト教の洗礼を受け、1000年続いた大司教が治める教会国家でした。
大司教に仕えていたモーツァルトは、5歳で作曲を始め、「神童」として幾度もザルツブルクから旅に出ました。やがて大司教が代わり、旅行が制限されるなど、息苦しさを感じるようになったモーツァルトは、1781年、ついにザルツブルクを去り、ウィーンで独立することになります。
ザルツブルクは、その後大司教がその地位を追われ、繁栄を極めた街は荒廃しますが、モーツァルトの存在が音楽の街として活気ある街に再生させます。モーツァルトを生んだ街であるが故に、ザルツブルク音楽祭が開催され、世界中からモーツァルトの「聖地」に人が集まるようになったのです。 |
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| モーツァルトの生家(記念館) |
モーツァルトの住居(記念館) |
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| バロック建築の傑作 大学教会 |
マリア・プライン巡礼教会 |
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| 大聖堂 モーツァルト洗礼盤 |
モーツァルト橋 |
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| 「魔笛」の小屋 |
ミラベル庭園 パパゲーナ噴水 |
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| ナンネルとミヒャエル・ハイドンの墓所 |
ナンネルの住居 |
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| コンスタンツェの住居 |
コンスタンツェ最期の家 |
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| ザンクト・ペーター教会 |
父レオポルトと妻コンスタンツェの墓 |
モーツァルト広場 モーツァルト像 |
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| カプチーナ山 モーツァルト胸像 |
「魔笛」 パパゲーノ像 |
St.ギルゲン モーツァルト少年像 |
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| ウィーン |
ウィーンは、ザルツブルクから旅で3度訪れ、1781年、大司教と決別後、亡くなるまでの約10年間を過ごした街です。
マリア・テレジアとその子供たちの治世下で宮廷音楽が栄えていたウィーンは、600年以上もハプスブルク家の拠点都市でした。
モーツァルトは作品の半数近くをウィーンで作曲しています。作曲家としての名声は高まりますが、それ以上にピアニストとしての評判は絶大なものでした。
コンスタンツェと結婚し、子供も授かるなど幸福な日々を送りますが、モーツァルトの人気と評価は、「フィガロの結婚」をピークに急低下していきます。徐々に収入も減り、生活も困窮をきわめ、1791年12月5日に亡くなった時には、収入に見合った葬儀しか行えませんでした。
遺体が埋葬されたマルクス墓地には誰一人立ち会わなかったため、遺体は行方不明になったままです。今でも多くの人が、記念碑のあるマルクス墓地と中央墓地を訪れ、モーツァルトを見守っています。 |
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| 御前演奏をしたシェーンブルン宮殿 |
結婚式と葬儀が行われたシュテファン大聖堂 |
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| 孤児院教会 |
モーツァルトハウス |
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| 「神童」最初の演奏会場跡銘板 |
3度目のウィーン訪問時の逗留先銘板 |
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| 大司教と決別したドイツ騎士団の家銘板 |
後宮からの誘拐を作曲した家銘板 |
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| シュテファン大聖堂前 大理石の星 |
フィガロの結婚を作曲した家銘板 |
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| 王宮庭園 モーツァルト像 |
モーツァルト像のレリーフ |
マリア・テレジア像のレリーフ |
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| タミーノとパミーナの泉 |
聖マルクス墓地 記念碑 |
中央墓地 記念碑 |
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| モーツァルトが演奏した家銘板 |
モーツァルト住居銘板 |
3大交響曲を作曲した家銘板 |
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| バーデン 「アヴェ・ヴェルム」銘板 |
最期の家跡銘板 |
遺体が運ばれ場所銘板 |
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| プラハ |
プラハは、モーツァルトをどこよりも理解し、暖かく迎えた街です。14世紀に「黄金のプラハ」と呼ばれる繁栄期を迎えたプラハは、16世紀以降、オーストリア帝国が崩壊する1918年までハプスブルク家が支配するドイツ語文化圏都市でした。
1786年、ウィーンで初演され、不評だった「フィガロの結婚」は、プラハでは爆発的な人気を博し、翌年1月モーツァルトは、招きに応じて初めてプラハを訪れます。「フィガロの結婚」のアリアが流行歌になっていた街を、モーツァルトはとても気に入ったようです。
再度10月に訪れたときには、友人の別荘であるベルトラムカ荘に滞在し、「ドン・ジョヴァンニ」を完成させ、自ら指揮して初演を果たしました。そして亡くなる3ヶ月前には、さらに「皇帝ティートの慈悲」を初演させています。
モーツァルトが指揮したエステート劇場は、今でも当時の雰囲気を伝えてくれています。 |
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| ベルトラムカ荘(記念館) |
ベルトラムカ荘 石のテーブル |
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音楽家ゆかりの地巡り
- モーツァルト(ザルツブルク、ウィーン)
- バッハ(アイゼナッハ、ワイマール、ケーテン、ライプツィヒ)
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